ちょっと一言

 二人の孫のじいじが日常生活のあれこれを書いています。 

決めすぎる政治

 先日(5/27)の読売新聞のコラム「編集手帳」を見て“ここまで来たか”と愕然とした。
 アンブローズ・ビアスの『知人とは、金を借りるほどには親しいが、金を貸すほどには親しくない人のこと』だという警句を引き合いに出し、一方で『借りもすれば貸しもする双方向の間柄が築かれて、初めて友人と呼べる』という言葉(『すごい言葉』晴山陽一(文春新書))を引いて、安全保障に話を敷衍し、日本には友人はいないはずだ、と断じている。なぜなら、日本は『助けを借りることはあっても貸すことはない』からだと言う。

 つまりは、“積極的平和主義”を口実に、(海外からの助けを借りるだけでなく)同盟国で有事があれば軍隊を派遣し、助けを“貸す”国でなければ国際的に孤立するはずだという現政権の主張を脅迫的な言い方で支持しているということに他ならないからだ。
 積極的平和主義のめざすところは“力によらず平和を実現する”ということだ。力をもって力を抑止するという浅薄かつ短絡的な考えではないことは論を待たない。

 しかし、この編集手帳子は『友人を増やし、不心得者に手出しをためらわせる』ことが平和をもたらすのだという意味のことを言い、その上で『集団的自衛権とはつまるところ、戦火をあらかじめ避ける仕組み』だと断言する。さらに、『孤独が甘美であるのは、人に限っての話である。国家の場合は、ひとり寝ていて身の安全が図れるほど世界は甘くできていない』と、まるで手を貸すこと=軍隊を海外に派遣することを躊躇するのは「甘い考え」であるかの如き言いようで、日本がこれまで堅持してきた「平和主義」そのものを真っ向から否定しているのだ。
 
 また先日(5/24)はNHK経営委員を務める作家の百田尚樹氏が、岐阜市内で開かれた自民党岐阜県連の定期大会で講演し、『軍隊は家に例えると、防犯用の鍵であり、(軍隊を持つことは)しっかり鍵を付けようということだ』と語ったという。さらに軍隊を持たない南太平洋のバヌアツ、ナウルの国名を挙げ、『家に例えると、くそ貧乏長屋で、泥棒も入らない国』などと両国をや揶揄する発言をしたとも報じられた。
 中立公平な視座からものごとを報じ論ずることがNHKには求められるはずだが、その経営委員を務める人物からのこのような発言は、報道機関が危機的な状況にあるということに他ならない。
 
 偏りなく事実をニュートラルな立場で報じるという姿勢は、NHKに限らず新聞をはじめとするマスメディアに課せられた使命であろうし、その姿勢を堅持することがマスメディアの依って立つ位置であろう。
そう思っていた矢先、本日付け(5/30)の編集手帳では、日本維新の会が別れるという話題を取り上げ、その中で次のように書いていた。『石原・橋下体制下を顧みて思う。政府・与党に見境もなく一から十まで反対することは慎み、事案ごとに是々非々で対応する「責任野党」であろうとした姿勢は、記憶されていいだろう』

 “責任野党”という言い方は、安倍首相が自らの主張に反対する野党に対して投げかけた言葉だ。まるで、与党の主張に反対することが「無責任」であるかのような言い方ではないか。立憲政治をないがしろにするかのような政府・与党の主張を批判し、反対することがなぜ「無責任」であり、責任野党としての務めを果たしていないことになるのか、そのように断じることそれ自体が大問題であるにもかかわらず、“野党としての責任を持つべきだ”と指摘することで、自らの主張が内包する問題から目をそらさせ、切って返す刀で野党を責める姑息な言い方であることに私たちは気づかなければならない。
 このような“もっともらしい言い方”は安倍首相の得意とするところのようで、“積極的平和主義”という言葉も同じ発想で案出されたものだ。

 マスメディアは、このような子どもじみた言い換えに潜む問題点や危うさを指摘し、政府の暴走に歯止めをかけ国の進むべき方向を誤らせない働きかけをすべきで、それが報道機関の最大の務めであるはずだ。
 であるにもかかわらず、政権にすりよりおもねって、政権の主張を声高に肩を持つかのような報道ぶりからは、まるで戦前・戦中の「戦争への動き」を扇動するかのような姿勢が思い起こされ、憂慮せざるを得ない。

 憂慮せざるを得ないのは、集団的自衛権の行使が必要なら、国民的な大議論をすることが望ましいという指摘に対し、安保法制懇座長代理の北岡伸一国際大学長が『明治維新だってみんなでやったわけじゃない』と言い放ったことに象徴されるように、国民は知らなくてもよい、国民を説得しなくてもよいと考えている人たちが議論を進めているからだ。
 幕藩体制で行われたことと民主主義の世の中で行われることを混同し、『庶民は知らなくてよい』と切って捨てるような発言をする人が、国民主権・平和主義・人権尊重を柱とする憲法を大切にしようとするとは思えないし、憲法の精神を守り“国民のためにどうずべきか”という発想でものごとを論ずることなど到底できるはずがないと思われるからだ。
 
 聞けば、与党内部でも加藤紘一・古賀誠・野中広務といった元自民党幹事長を含むリベラル派が現政権への批判を強めているという。それに対して現執行部は『しょせん過去の人たち。無視するのが一番だ』との反応を示しているという。
 このようにして“無視し”他の声を聞かなくなった政権は、どこまで暴走するか知れたものではない。集団的自衛権の行使は、自衛隊員ばかりか国民全体の生命に重大な不利益をもたらす可能性があるにもかかわらず、国民的合意を得ずにまさに前のめりになって決めてしまおうという政府の姿勢は、それ自体が危険であることは言うまでもない。
いずれ“決められる政治”“決めすぎる政治”の実現のために、憲法など権力へのブレーキは全部外せということになるのではないか。それもろくな議論もせずに得体の知れない「有識者会議(御用会議)」の答申を受けたという理由で、閣議決定で済ませてしまうというような手段を用いて、いつの間にか進むべき方向をねじまげられていたという事態になることが想像される。
 
 これは国会軽視などという言葉で済ませてしまってよいことではない。いままさに日本は民主主義の危機に面しているのだ、と認識し直すべきである。
 先の教育基本法の改正にしても、今次の憲法改正にしても、集団的自衛権の行使容認にしても、すべて安倍首相自身の“悲願”として言い出されたことだ。つまりその土俵を設けたのは首相に他ならず、それを設けたのは国のためでも国民のためでもなく、自身のためだということだ。その土俵があってよいかどうかの議論は棚上げにされ論じられることがないまま、技のかけ合いをしているかのような感がある。
大事なことは、その土俵そのものが必要不可欠なことかどうかということで、こういう取り口ならよいだろうとか、この技までは認めようということではないはずだ。
 大勢の声を無視しても「決めてしまおう」というのは、それ自体に正当性を見いだせていないからではないか、と平凡な一市民は大いに疑問を呈したくなる憂慮すべき事態である。少なくても、北朝鮮による拉致被害者の捜索を受け容れさせることができた、などということが、このような国民の憂いから「目をそらさせる手段」になるはずだ、などと思わずに政府・与党は多くの声を真摯に聞いて慎重に政権運営をすべきなのではないか。
なんと言っても、選挙で多数の議席を得たにしても、野党に投じられた総票数の方が多く、自民党が絶対的な指示を得たということではないのだから。